WXY-TV

今週末です。宜しくお願いします。
gallery Archipelago

"WXY-TV Public Viewing" cat's heaven...!
2006.8.19(土)
18:00〜22:00
gallery Archipelago

原田 晋/Susumu Harada × 吉田 和貴/Kazutaka Yoshida

" WXY-TV Public Viewing "

昔、未来人の予想図がドラえもんに書いてあった。詳しい事は忘れてしまったが、眼と頭が極端に肥大して、ヒョロヒョロになった手にテレビのリモコンが握られていた。確かドラえもんは「テレビの見すぎでこんな形に進化した」と言っていたような気がする。そして、僕らはテレビを見ていた。あるときは、ただぼんやりと。あるときは、真剣に。我々は、エジプトのピラミッドに沈む夕日をイメージすることが出来る。サッカー選手がどんな表情でピッチの上に立っているかを知っている。作り話である事を知りながら、その作り話にドキドキしたりハラハラしたりすることが出来る。自分とは無関係な話に心の底から笑うことが出来る。自分は寝転んでいるこの瞬間に、海を隔てた遠くの世界で飛行機がビルに突撃したことを知ることが出来る。想像力は、自分とテレビの中に映し出された物とを、簡単にブリッジしてしまう。テレビを見るという行為は、ほんの幾つかの感覚が欠落した体験であり、欠落した感覚を付随情報と想像力が埋めてしまう。たとえ、そこに痛みや匂いが無いとしても、我々はそれを体験してしまい、自らの中へ収納してしまう。我々は想像力を使ってテレビを見ているのではない。想像は出来てしまうのだ。僕らの進化は、既に始まっているのかもしれない。

“WXY-TV Public Viewing”は、そんな進化への挑戦なのではないだろうか?彼らの会場では、彼ら自身が制作したテレビ番組が放送される。それらの映像はテレビ番組の中にあるエッセンスを自らが追体験していく物だ。 そして、それを見る視聴者の姿をさらに外部へ放送することで、彼らは「テレビを見る」という構図そのものを、その会場に出現させようとしている。彼らが作るテレビへのラブレターとも挑戦状とも取れる番組は、切なく痛々しい。しかし、その感覚こそが「テレビを見る」という行為であり、テレビというただの家電がもたらしトレーニングし続けた、情報にコネクトし自らの体験としていくという「新しい知覚」なのではないだろうか。視聴者である我々が、切なく痛々しい番組をテレビとして受け入れたとき、そのテレビを見ている自分の姿を、もう一つのテレビで確認したとき、もう一度、気が付くのかも知れない。

「僕らはテレビが好きなんだ」と。


(篠昭好)