http://square.umin.ac.jp/tadafumi/YK.html
http://square.umin.ac.jp/tadafumi/MoodDisorder.html

躁状態の患者さんは、本人はとても調子が良いと思っている一方、周りの人を困らせていることが多いので、なかなか治療に結びつけにくいという問題があります。何とか本人の訴え(眠れない、いらいらする、など)を引き出して受診に結びつけたり、上司から指示してもらうなどして、受診につなげます。躁状態の患者さんを治療せずに放っておくと、社会的信用や家族との信頼関係を失ってしまうので、早期の治療が必要です。外来治療を拒否する場合は、入院が必要となります。意に反して入院させるには、医療保護入院といった強制的な入院が必要なこともあります。こうした場合は特に、抗精神病薬により十分に鎮静して休養できるようにすることが必要です。

 躁状態では、子供扱いせず相手を立てるようにしながら対等に話す、根気よく説得し、相手の正常な部分を引き出して交渉する、しつこい場合は話をそらす、など対応を工夫しながら、薬物療法による改善を待ちます。躁状態は、治療すればたいてい2、3カ月以内に治ります。

 双極性障害の治療で最も大切なのは、再発予防です。患者さんの人生を脅かすのは、再発を繰り返すことによる二次的な社会的ハンディキャップです。そのためには、長期間、ほぼ生涯にわたる薬物療法が必要となります。

 予防薬には、主としてリチウム、カルバマゼピンバルプロ酸の3つがあります。リチウムは、手がふるえる、のどが渇くなどの副作用があり、中毒になりやすい薬なので、医師の指示を守りながら服薬する必要があります。これらの薬を効果的に使えば、ほとんどの患者さんでは薬を飲んでいる限り病相(躁状態うつ状態)が全くなくなるか、軽い病相ですみます。

一生薬を飲むというのは、誰にとっても受け入れがたいことです。しかし、それを受け入れない限り、患者さんが社会的ハンディキャップを背負うことを予防できません。そのためには、患者さんが疾病を受容するプロセスに注意しながら、疾患について教育していく必要があります。生涯薬を飲めといわれれば、誰でも反発したり、認めようとしなかったりします。納得しても今度は、一生治療を続けなければならないほどの病気になってしまった、と落ち込んだり、自己否定したりします。その時期を通り越して始めて、病気とつきあいながら暮らしていこうという境地に至るのです。

http://square.umin.ac.jp/tadafumi/mania.htm

躁状態への対応について

 周囲の人が突然躁状態になった場合、正しく躁状態であると理解されることは、残念ながら今の日本では、ほとんど期待できません。

 それまで全く普通に生活していた人が、急に、他の人を非難したり、場にそぐわない言動をとったりしても、「この人は(元々)こんな人だったのか」「こどもじみた人だな」などと思われて、周囲が反発し、批判する、というだけに終わってしまう場合が多いのです。

躁状態に伴う誇大性などに伴って、顧客に対する失礼な言動、周囲の人に対する「上から目線」的な言動、上司に対する反抗、職場における金銭面の判断の誤り(使い込み)などのさまざまな言動をしてしまい、要職を辞めざるを得なくなり、人生を棒に振ってしまった方は、残念ながら、数多くいらっしゃいます。

 こうした言動が躁状態によるものであっても、病気であるとは気づかれないまま、その人の人格の問題として扱われ、不適格な人物であるとされて仕事を失ったり、離婚に至るなど、人生に大きな痛手を背負うことになってしまうのです。

 こうした場合には、元々のその人はどういう人であったか、よくよく考えてみる必要があります。「いつも穏やかな夫が、まさかこんな言動を取るなんて。信じられない」などと思った時は、躁状態の可能性を考えてみる必要があります。

周囲の人たちは、躁状態になっている患者さんを見て、何だ、こんな人だったのか、と怒って離れていってしまうだけかも知れません。そのため、躁状態になっている患者さんの人生を心配し、救えるのは、ご家族だけ、という場合も少なくありません。

 職場の上司の方が、部下が躁状態である可能性に気づいた場合、業務指示として受診を指示することは可能です。これは、雇用主の安全配慮義務に基づく行為であり、決して人権侵害にはあたりません。雇用主は、被雇用者が業務を安全に行える健康状態にあることを確認する義務があるからです。このように指示を受けた人は、雇用主の元で働き続けたいのであれば、この業務指示に従わなければなりません。

とはいえ、実際には、本人が被害的になるなどして、思うように進まない場合も考えられます。

 双極性障害は、放置すると、仕事や友人など、多くのものを失い、社会的生命の危機に陥る可能性もある病気です。病気だという認識のない患者さんを治療につなげることは、本当に大変なことですが、職場、家族を初めとする周囲の方々が、躁状態の可能性に気づき、早めに対応することで、初めて患者さんの人生を守ることができるのです。

http://www2.cc22.ne.jp/~hiroki/a64.htm

非定型精神病とは、どんな病気ですか。
A ■何を「非定型精神病」と診断するかに関してさえ、さまざまな意見があります。「非定型精神病」を積極的に認める立場とそうでない立場があります。精神科医によって必ずしも統一した考え方がされているとは限りません。すなわち、やや混乱した領域と言えます。
■精神病を「精神分裂病」と「躁うつ病」の2つに大きく分けた場合、そのどちらにも当てはめることのできない場合がどうしても出てきます。そこで非定型な現象をとるものをまとめようとする考え方が出てきます。精神分裂病のように見えるが、精神分裂病というよりも、「躁うつ病がより悪化した急性精神病」あるいは「精神分裂病像を伴った躁うつ病」という印象です。「急性一過性精神病」や「分裂感情障害」などが含まれます。
■特に以下の特徴を持つような疾患群を「非定型精神病」とすることが多いと思われます。
■その特徴とは、
(1)発症は急性である。
(2)精神分裂病の緊張病症候群と同様の症状を呈する。
(3)幻覚や妄想があったり気分が極端に不安定で興奮したり錯乱状態、夢幻様状態になる。病像としては、情動・精神運動性障害が中心となる。
(4)意識の曇りがあるように見える。あとで覚えていないことがある。
(5)比較的治りは良く、長くても3〜6か月でいったん落ち着くと全くもとどおりの人になる。
(6)もともとは、社会適応が良く、話がとてもよく通じる人である。エネルギッシュな頑張りやさんで、何かにとりくむとのめり込んでいく傾向がある。
(7)多くの場合は、心理的要因や身体的な疲労がきっかけで発病する。
(8)繰り返すことはある。
(9)女性に多く、特に産褥期や月経前に起こりやすい。
(10)抗精神病薬は無効のことがあり、治療上の工夫が必要である。

http://homepage2.nifty.com/another_psychiatry/schizoaffective.html

2.在り方の特徴

非定型精神病/統合失調感情障害の患者さんは、
自分の中に「困った!」という気持ちを持っておくことが
とても苦手のようです。それは言うまでもなく、原体験の
「問題は何も無いはず」「辛い事や苦しい事は即排除!」
という性質に基いています。そこでは、
「困った!」という気持ちはすぐに消えないといけないのです。
その為に、
迷い葛藤することができず、すぐに結論を出そうとし、
また、自分の中でじっくり考える代わりに、
他の人達の意見にすぐに飛びついてしまいます。
そのようにして様々な意見に感化され
収拾がつかなくなることも珍しくありません。
また、同様の事情から、
時間を持ち堪(こた)えることの有用さ(意味)を
体得することが困難で、
「今の瞬間が全て」ともなっています。
もう一つ。
統合失調症の患者さんが
自分だけの(原体験的)世界に
空間的に引き籠りがちなのに対して、
非定型精神病/統合失調感情障害の患者さんは、
原体験のもう一つの重要な性質である「体験の直接性」
への親和性が強く、その時その時の感覚的体験に
とても影響され易いようです。
それは、その時々の気分や感情であったり、
「自分が動いている」という身体運動感覚であったりします。
「動いているのが好きなんです」「動いていないと不安になります」と
端的に表現される患者さんも少なくありません。そして
「目に見える周りの状況」に常に注意が
向いていて(⇒away構造)、
自分の中に
「困った」という気持ちが
起こりそうになると即座に動いて
その気持ちを起こさせた「周りの状況」を
変えようとします。その為に、常に落ち着き無く
いろいろな状況に反応し続けることになっています。
それでも「困った」という気持ちから逃れられなくなると、
もう恐怖で一杯になり、数日眠れなくなって
大混乱に陥ってしまうのです。

http://homepage2.nifty.com/another_psychiatry/findings_of_therapeutic_psychiatry.html#primal_mind

8.共感・共検討・共決断―治療のエッセンス―

 以上のような理解を伴いながら、辻は、自らの実践と他の様々な(うまくいっている)治療技法を総合し、治療的関与のエッセンスとして次の三つを抽出しています。

 ①共感:これは「あらゆる治療的関わりを肯定的関係性の上に載せる」ということの為に必要な要素です。
 「共感」と言いますと、しばしば「健康な部分同士の共感」と捉えられがちですが、辻は「(病的部分に対して)健康な部分が感ずる苦悩への共感」は真の共感ではない、と強調しています。この時に共感されるべきなのは、病んでいることそのものに於いて働いている共人間的事情です。これは原体験心性の融合合一的で直接的な性質に基づいていながら、同時に弁別的理解の裏づけ(間接化)を必要としています。

 ②共検討:これは「見るべきものを共によく見、見分けるべきものを共に見分けて行く」という弁別的認知的営みを指しています。

 ③共決断:これは治療に於ける力のモーメントです。当初は「対決」とされていて、患者さんが「手に入れるべき決断」を前に逡巡している時、治療者が「背中を押す」といったニュアンスがあり、実際に力のこもった喧嘩腰(?)の遣り取りも目撃されました。しかし、最近では「決断することを独りにさせない」と修正され、例えば「そこが難しいねぇ」と明確化しながら寄り添う(或いは、決断に付き合う)というニュアンスで、より穏やかなものになった印象です。

 辻は、「およそうまくいっている治療であれば(行動療法であろうと来談者中心療法であろうと精神分析療法であろうと)、必ずこれら三要素を含んでいる」と述べています。近年、精神療法の代表と成り上がってしまった認知療法/認知行動療法もこの例外ではありません。

http://ameblo.jp/kyupin/entry-10089476136.html

面白いというと不謹慎だけど、引き込まれてしまった。
難しい問題なんだなあと。
ご本人と周囲の方に平穏な日々が訪れることを祈ります。